平野佳寿投手は1984年3月8日生まれの40歳(2024/11/21時点)で、京都府宇治市出身。
京都府立鳥羽高校から京都産業大学を経て、2005年にドラフト希望枠でオリックスバファローズに入団し、2018年からアリゾナ・ダイヤモンドバックス、2020年からはシアトル・マリナーズに在籍。
そして、2021年に古巣・オリックス・バファローズに戻り、背番号は「16」です。
平野佳寿が結婚した美人と話題の嫁と子供の存在が気になる!
スリークウォーターから平均球速約148km/h、最速156km/hのストレートに、フォークボール・スライダー・カーブを投げ分ける平野佳寿投手ですが、連投やイニング跨ぎなどの過酷な登板も可能にするスタミナの持ち主で、故障が少ない一方で、三振だけでなくゴロアウトが多いことも特徴です。
監督・首脳陣からすれば、一番求めている中継ぎ投手でしょう!
そんな平野佳寿投手ですが、2011年の12月に結婚していて、ネット上で「結婚相手の嫁さんがかわいい!」と評判になっていたんです。
どんな嫁さんなのか凄く気になっちゃいますね!
噂通りとても綺麗な女性ですよね!
嫁さんの名前は亜衣(あい)さんといって、旧姓は「佐藤」さんだそうです。
嫁・亜衣さんはゴルフ場に勤務していたそうで、平野佳寿投手の一目惚れがキッカケとなり交際へと至ったわけです。
勤めていたゴルフ場にて、亜衣さんに電話番号を渡すなど、積極的にアプローチしたとのこと!
嫁の亜衣さんのような素敵な女性を目の前にすればと考えたら気持ちはよくわかるニャー!一目惚れするほど衝撃的な女性と最終的に結婚できたんだから、平野佳寿投手はきっと相当努力したんだと思うニャン!
結婚した嫁・亜衣さんと出会ったのが2009年頃なので、約2年間の交際の末に結婚した事になりますね。
結婚した時期はまだ渡米前のオリックス・バファローズの在籍で、その後メジャーに移籍したわけですから、嫁の亜衣さんの支えはかなり大きかったのではないでしょうか!
また、嫁・亜衣さんとの子供について調べたところ、現時点では子供がいるような情報がありませんでした。
もしかしたら、2人の時間を楽しみたいのかもしれませんし、公になっていないだけで子供がいるかもしれませんが、そこは情報がないのであくまで憶測でしかありませんね。
今後も、平野佳寿投手が結婚した嫁・亜衣さんと子供に関する情報が入り次第追記していきたいと思います。
平野佳寿のメジャーでの成績が知りたい!
現在、オリックス・バファローズで中継ぎ投手陣の柱として活躍している平野佳寿投手。
後ろに平野佳寿投手がいてくれる安心感はとても大きいと思います。
実績十分の平野佳寿投手ですが、メジャーリーグでの実績はどうだったのか気になりますね。
メジャーリーグ時代の平野佳寿投手に迫ってみましょう!
2017年12月22日に、MLB(メジャーリーグベースボール)のアリゾナ・ダイヤモンドバックスと2年契約で移籍すると、2018年3月29日に本拠地のチェイス・フィールドで開かれたロッキーズとのMLB開幕戦で、7回表に救援投手として公式戦デビュー果たしました。
その後セットアッパー(8回を任されること)へ定着すると、5月6日の対アストロズ戦から、7月3日の対カージナルス戦(いずれもチェイス・フィールド)まで26登板連続無失点記録を残すことに!
活躍は止まらず、2018年シーズンのMLB公式戦は通算75試合の登板(日本人最高)で、4勝3敗・防御率2.44、ナショナル・リーグ3位の32ホールドをマークしました。
メジャー1年目は申し分ない実績を残したわけですね!
2020年にシアトル・マリナーズに移籍し、球団からはクローザー(抑え投手)としての期待がかかっていました。
ただ、2020年シーズンはコロナウイルスの影響も大きく、さらに怪我も重なったことで満足に活躍できず、翌年の契約を勝ち取ることは叶いませんでした。
コロナウイルスによる厳しい制限(無観客や試合数減少など)がかかり、チームの収益が大幅に減少したことも原因の一つでしょうけど。
このことから、メジャーリーグで活躍したのは1年目が目立ちましたが、野球の世界最高峰・メジャーリーグでも十分に実力を見せつけていたことがわかりますね!
引き続き、日本球界での活躍も期待できそうです。
平野佳寿の高校・大学時代にも迫る!
日本球界でもメジャーリーグでも実績を残し、オリックス・バファローズの復帰会見では丸坊主で臨んだ平野佳寿投手。
気合いの表れだったのでしょうけど、とても坊主が似合っていますね!
そんな平野佳寿投手ですが、高校・大学時代はどんな投手だったのでしょうか。
気になるファンの方も多いと思うので、高校・大学時代について調べてみました。
小学3年生の時、少年野球チーム「小倉リトルズ」で軟式野球を始めると、捕手兼内野手としてプレーし主将も任されていたそうです。
投手は中学時代に転向し、野球部に所属していたとのこと。
中学卒業後、京都府立鳥羽高校へ進学し、高校1年の秋からベンチ入りすることに。
当時、硬式野球部の監督だった卯瀧逸夫さんからエースになることを期待されていましたが、平野佳寿投手が腰痛に悩まされていたため、公式戦には高校3年春の京都府大会初戦を除いて、救援(中継ぎ投手)で登板していました。
チームは、平野佳寿投手の高校2年時の春から3季連続で甲子園出場するものの、腰痛のためベンチ外でしたが、春の選抜甲子園は2年連続出場し、登板経験は高校2年の第72回選抜高等学校野球大会準決勝(対東海大相模高校戦)のみで、中継ぎとして3回途中からマウンドに上がり、3回1/3を投げ被安打6、失点9、自責点7と打ち込まれ1-11で敗戦したという経緯があります。
甲子園のマウンドに立てたとはいえ、不完全燃焼だったと思います。
平野佳寿投手の高校時代は、腰痛に悩まされていたんですね。
高校卒業後は京都産業大学に進学し、京都産業大学関西六大学野球リーグ戦で、大学2年時からエースとして活躍しました。
在学中にはリーグ戦通算で56試合に登板し、36勝11敗・防御率1.33・404奪三振という素晴らしい成績を残し、最優秀選手に2回、最優秀投手に4回、ベストナインにも4回選ばれました。
圧倒的な成績を残していますね!
腰痛で悩まされた高校時代を乗り越え、大学時代で一気に才能が開花したのかもしれませんが、相当な努力をしてきたのだと想像できます。
怪我をしにくい身体になれたのは、高校時代の経験の賜物でしょうね!
最後に
学生時代(主に大学時代)から投手としてかなりの好成績を収めており、プロ入り後も圧巻の実績を残している平野佳寿投手。
平均球速140km/h超えのストレート(全盛期の最速は156km/h)だけでなく、多彩な変化球で打ち取るスタイルが魅力です。
特にストレートとフォークの組み合わせは、破壊的に効果抜群ですね!
十分ベテランの域には達していますが、まだまだ期待値の高い投手と言えるでしょう。