父や兄と同じ道を歩むことになるのか、2人の子供の進路に注目しましょう!
今後も、高津臣吾監督の嫁と子供に関する情報が入り次第追記していきたいと思います。
シンカーで名を馳せた高津臣吾の現役時代に迫る!
高津臣吾監督の現役時代に迫ってみましょう。
広島県の広島工業高等学校を卒業後、東都大学リーグの亜細亜大学に進学。同期の小池秀郎と共に、サイドハンドから放たれる『シンカーボール』を武器にエースとして活躍。
1990年ドラフト会議でヤクルトから3位指名を受け入団し、入団当初は主に先発投手を任されていましたが、3年目の1993年には野村克也監督(当時)から抑え投手に抜擢され、チームの日本一に貢献。
その後も4度の最優秀救援投手(1994年、1999年、2001年、2003年)を獲得するなど、ヤクルト黄金時代の抑え投手として活躍することに。
2004年からはFA権を行使して活躍の場をメジャーに移し、ホワイトソックス、メッツで27セーブをあげるなど活躍した高津臣吾監督。
2006年からは古巣ヤクルトに復帰し、古田敦也さんの引退試合でマウンドに立つなど、往年のファンを沸かせてくれました。
その後は韓国、アメリカ、台湾と世界を渡り歩き、2011年からは独立リーグの新潟アルビレックスに入団。
2012年は選手兼任監督も務めてチームを初のリーグ優勝に導き、同年限りで現役を引退しました。
2014年からはヤクルトの投手コーチに就任し、低迷する投手陣の立て直しに尽力し、2015年のリーグ優勝に貢献。
2017年から二軍監督を務め、若手の指導にあたると、2020年からは一軍監督に就任。
そんな高津臣吾監督の現役時代の武器は『シンカー』です。
シンカー(sinker)とは、利き腕と同じ方向にシュート回転しながら沈んでいくボールで、高津臣吾監督のようにサイドスローのピッチャーが主に得意とする球です。
アマチュア時代からこの球を投げていたものの、プロに入ってからますます磨きをかけて、大きな武器としていきました。
このシンカーに磨きをかけるきっかけとなったのが、西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)の潮崎哲也投手が投げていたシンカーだったんです。
1992年の日本シリーズでヤクルトと西武が対戦したとき、当時監督を務めていた野村克也さんが潮崎哲也投手のシンカーを見て、シンカーに磨きをかけるよう高津臣吾監督に命じたのは有名な話ですね。
従来投げていたシンカーは、ストレートと球速差がさほどなく、ツーシームのように小さく曲がり打者をゴロアウトにとるようなものでしたが、それをさらに遅く、曲がりを大きくして空振りを誘うものになりました。
この遅いシンカーを習得後、速いシンカーとの組み合わせで打者を抑えられるようになり、このシンカーを武器に球界を代表する抑え投手に上り詰めたのです。
今後も、高津臣吾監督のような『魔球・シンカー』を操る投手が現れることを楽しみにしましょう!
監督としての高津臣吾の評価が知りたい!
高津臣吾監督は、プロの一軍では2020年が初の采配を振るうことになるものの、2012年の新潟アルビレックス時代には選手権監督を兼任しており、チームをリーグ優勝に導いています。
43歳になるまで現役選手であることにこだわり続けた高津臣吾監督ですが、新潟アルビレックス時代は1年目にリーグチャンピオンシップで敗退したことで、「勝つことにとことんこだわる」と明言し、チームをリーグ優勝に導いたのです。
ヤクルトに復帰した後は、一軍投手コーチ、二軍監督を歴任し、秋吉亮投手(現北海道日本ハムファイターズ)や高橋奎二投手ら、多くの主力投手を育て上げています。
また、メジャーリーグを経験した指導者ならではの考えも持っており、例えばブルペンでの球数に制限をかけるなど、従来の常識を打ち破る改革をしてきました。
一軍監督としての手腕は未知数ですが、若手育成の実績は十分であり、先日亡くなられた野村克也さんの野球理論をしっかりと受け継いだ名将として、スワローズの歴史に名を刻む監督となることでしょう。
高津臣吾監督の采配に目が離せませんね!
最後に
メジャーリーグを経験した監督としては、日本のプロ野球では井口資仁監督(千葉ロッテマリーンズ)以来2人目となる監督になる高津臣吾新監督。
前回優勝した2015年は、同じく2軍監督から昇格した真中満さんが若手メンバーを率いて就任一年目からいきなり優勝しました。
低迷する投手陣を立て直し、2015年以来の優勝に導けるか、高津臣吾監督の手腕に注目していきましょう!
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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